日記

「少食日記」はじめます 1

そもそものはじまりは「ここのところ胃が重い」だった。

なんとなく優れない日がつづき

「これは一度、診てもらったほうがいい」と思うようになった。

ちょうど葉山にもどる予定があり、かかりつけの病院に電話をしたところ

予約がとれたので葉山滞在を一日のばし、病院へ行ったのだ。

そこの病院は、西洋医学だけれど、漢方を処方してくれる。

「漢方薬をだしてもらおう」。そんな軽い気持ちでおとずれた。

(この具合がよくないから薬を、という発想自体が・・・)

診察は、いつも横になっておなかをさわる。

今回もいつもとおなじようにおなかをさわられた。

ふーん、という先生の表情もいつもとおなじだ。

その後、ベットからおきあがり、椅子に座り直したわたしに先生は言った。

「胃カメラを飲んだ方がいいかもしれません」。

! !   !

「胃カメラですか?  どうしてですか?」

というわたしの問いに(明らかにやや動揺)

「潰瘍になっているかもしれません」。

そのとき、わたしが思ったのは

「潰瘍」より「胃カメラを飲みたくない」だった。

 

どうしてそんなふうになったか、ふたりで原因を探しはじめた。

何があったか、思い当たることはあるか・・・を聞かれた。

あたらしい土地で暮らすのは少なからずストレスはある。

車の運転も長くなった。家も見つからない。

暴飲暴食もしていないし、お酒(少々飲みます)もタバコもとらない。

「そういうことじゃないみたいよ」と、先生。

そのとき「あっ」となった。

あることを思い出したのだ。

そのことを話すと先生は「ああ、それだ」と、今度は納得顔。

診断は、薬を飲んでしばらく様子を見ること。

症状が消えなかったら、胃カメラを飲むこと。(イヤだ)

処方してくれたのは、サイコケイシトウという漢方薬と

レスキュレメディを一日4回、塩を丹田に貼る、そして、鍼灸を受ける。

相変わらず、西洋医学の枠を超えまくっている診断に関心する。

原因がわかったので、ふたりで「多分、だいじょうぶそう」という雰囲気になった。

 

とは言っても気になる。

山に帰って来てから最初にしたのは、中島デコさんへのメールだった。

そして、返ってきた返事が「少しのものをよく噛んで食べること」だった。

ゴールデンウィーク中にファスティング(半断食)をしようと考えていたけれど

ファスティングより、少食のほうが効果があるという。

でも、この少食、ただ少なくするだけではない。

メールには、粉もの、油、動物性、乳製品、嗜好品を止めるとあった。

かつて、きっちりマクロビオティックを三年やったことがあるけれど

そのときのほうがまだゆるい。

基本は、ごはんとおみそ汁と季節の野菜の副菜少々となる。

また、基本おなかをすかせた状態・・・が大事らしい。

玄米は土鍋で炊いたほうがいい、ともあった。ふむふむ。

 

「全部自分」とそのメールには書いてあった。

そう。わたしもそう思う。

と、いうことで、その日からすぐ「少食」をはじめた。

 

日ごろ、比較的きちんとしたものを食べているし

「これは、食べないほうがいいだろう」というものはほとんど手をださない。

だから「少食」もそれなりにできると思っていた。

けれど、これがなかなか・・・なのだ。

思っている以上に、いろいろなものを食べていることに気づいた。

とくに粉もの。粉ものすきだからなあ・・・。ううむ。

それにここは、なんと言ってもうどん県。

家にずっといるわけではないので「今日はちょっと」もある。

この前、マーケットをやったのだけれど

そのときは、差し入れのおいしいパンとスコーンを食べた。(よく噛みましたよ)

夜には、ともだちと町にごはんを食べに行き、

ごはんとおみそ汁に鰹のお刺身を二切れ。

昨日は、デコさんの料理教室に参加して、少なめにしたけれどいろいろ食べた。笑

それでも、10日間の数日、少食にしただけで胃の重さはずいぶん変化した。

気になっていた背中の違和感も消えた。

 

前置きがとてもとても長くなったけれど、しばらく「少食日記」つけてみます。

デコさんからは「1~3か月つづけたら治るよ」とあった。

(そもそも、潰瘍かどうかもわからないので治るという話ではないかもしれませんが)

おなじ建物に暮らすマクロビオティツクの先生からは

「そんなにかからないと思う」と言われ、やや安心。

まずは、胃の重さがすっきり消えるまでやることにします。

1か月かかるか、2週間ですっきりするか、それ以上かはわかりません。

鍼も受けて、自分でお灸もして、温泉もできるだけ行こう。

多分、大波、小波があると思います。からだにも、気持ちにも。

それが、どう変化していくか見ものです。

これで調子が元にもどったらうれしいし

だれかの役に立つかもしれない。

調子がいいわたしも、よくないわたしも「全部自分」。

もちろん、からだは元気なほうがいいけれど

からだは調子がわるくなることで、ある意味バランスをとったり、

なにかを教えてくれているのだとも思います。

気がつかなかったこと、気がつかないようにしていたこと・・・を。

「受け入れて」。「変えていく」。

少食。いいきっかけにしよう。

 

4月24日

朝 ほうじ茶

昼 料理教室 ラビオリ、玄米の生春巻き、アジアンスープ、サラダ、豆腐グラタン

夜 おみそ汁(わかめ・ねぎ)

 

高速バスで神戸まで移動。バスの往復ですこし眠る。

帰ってきて、バス停近くのお店でお茶を飲む。

ぼうっとしていたらすごくしあわせな気持ちになった。

お料理教室は、たのしかった。とにかくよく噛んで食べた。

代官山蔦屋書店イベント・メモ

松浦裕さんがフェイスブックにトークイベントのメモをあげてくれました。

日記にそのまま掲載させていただきます。

松浦さん、ありがとう。

・・・・・・・
普段アフタヌーンティーのHPのお仕事でお世話になっている廣瀬裕子さん。

かれこれ10年以上も編集を担当させていただいたおります。

その廣瀬さんと、葉山にある茅山荘で座禅会を主宰されている藤田一照さんによる

対話をまとめた新刊「あたらしいわたし 禅100のメッセージ」の発売を記念した

トークショーに行ってきました。@蔦屋書店

お二人のお話の中にはいろいろな気づきがあったので、

気になったことを長々〜とメモ。

まあ、でもあくまで浅はかな自分が聞きかじった範囲なので、そのへんはご了承を。

おもしろかったのは「なりたい自分を手放す」というエピソード。

本の中でも触れられているけど、

廣瀬さん自身も一照さんのお話に耳を傾ける中で、一番衝撃だったことだそう。

目標を決めて達成する→さらに目標を定めて達成する。

ついつい自分たちはそういったルーティンの中に生きているのだけど、

そうじゃないんだと。

目標を達成する、ついに完成だ!

そんな瞬間があったとしても、それはあくまで思い込みで、

本来は完成という状態はない。世の中というのは常に移ろうもの。

すべて動いていって、更新していくものだから、

完成と思った瞬間に停滞がやってくる。

だから座禅というものも終わりがないし、一生続いていくもの。

一照さんは「アテ(当て)」と「願い」の違いというエピソードで説明してくれた。

欲望がアテを描いて、アテに引きずられてアテを頼りにがんばる。

これがよくある僕らの生き方。もう反対にあるのは願いをもって生きること。

この2つは似ているようで違う。

アテには失敗と成功がある。つまりアテが外れれば、それは失敗となる。
でも願いというのは大きな方向性。

だからうまく行かなかったらそれは何らかの糧になるし、

また別の工夫をして願いに向かっていく。そういう意味での失敗はない。
これにはゴールがないしプロセスが問題(つまり大事)となる。

テの方は早くゴールに到達するのが目標でやっているから結果を心配する。

つまり未来に対して不安をもって生きることになる。

願いは未来を信じているから、安心して今に取り組める。

それから仏教における「悟り」という概念について、

廣瀬さんと一照さんとのやりとりもありました。
「悟り」というと、心がある段階から別次元に移行するとか、

特別な人間になれるみたいなイメージで捉えられるけど、

道元さんの思想では、

修行すること自体の中に悟りがあるという捉え方なんだそう。

つまりプロセスの中にこそ悟りがあるから、

いつまでも悟りが開けないことに対しての焦りなどはないし、

安心して修行に励めるということになる。

地に足をつけてありのまま、あたりまえを深めていく。

だから仏教は難しすぎてわからないのではなく、やさしすぎてわからない。

たりまえのことすぎてわからないものだと。

よく宗教って、しがみついている常識のようなものをはがすようなイメージで

漠然と捉えられるけど、仏教はそうではなく教えによって照らすことで学んでいく。

あと話を聞きながら感じたのは、世界はひとつ、未来は今ってことなんだ。
一照さんの説明がまたしてもわかりやすい。

「仏教は汚れた世界から悟りを開いて、永遠なるピュアな世界に行く、ってな

2つの世界を想定したストーリーを描くのではない。

ここしかない、世界はひとつなんだ」と説く。
だからフォーカスをかえればこの世界はまんざらじゃないし、

踊り方を学べば、楽しく踊れる。

そういう意味で仏教はとてもモダンな宗教なんだよと。

ふむふむ、モダン、それはリアリティがあるってこと?!なるほどなるほど。

「踊り方を学ぶ」っていう部分が、広い意味での「禅」っていうことなのかな。

そしてそういった世界を「あたりまえに見る」ための訓練が

「座禅」なのかもしれない。
だから「修行」と「日常生活」といったふうに、

何か特別な行為と日常がわかれているわけでもなく、

禅というものは生活全般の中にあるし、座禅している時だけが

修行というわけではない。
例えば皿洗いを日常の雑事としてこなしてしまえば、それまでのことだし、

逆に意識を集中してやれば、その瞬間も気持ちよいしきっと達成感も違う。

ニュアンスとしてはよくわかるけど、

自分の実生活に落とし込むと難しい領域でもあるが…(笑)
とにかく未来を信じて今ここでやる。

そのことが未来のタネになっていく、というワケだ。

そのへんを集約させていくと、何らかの世の中的な価値を気にしたりするんではなく

「ありのままの自分でいい」っていうことになる。

この文章を、相撲中継をつけながらまとめていたからというのもあるけど、

この「禅」の生き方のような部分と、

白鵬の歩んでいる相撲道と重なっている部分があるね。

白鵬は、土俵上だけでなく、生活とか生き方ずべて相撲道を極めようとしているし、

どんな瞬間であっても「横綱」であろうとしている。

そのことがひしひしと伝わってくる力士だ…‘

話は脱線してしまった…「ありのままの自分」に話を戻そう。
「ありのままの自分」「そのままの自分」っていうのがまた厄介。

上っ面で言葉を捉えると、「今の自分を愛しましょう」みたいな

純な現状の肯定になってしまいがちだけど、

そうではないんだって一照さんはおっしゃるわけです。むむむ
じゃあ本当の自分ってなんなの? 

自分ってそんな小さいものじゃないんだよ、

それを突き詰めていく、深めていくのが仏教なんだ。
こういった論理の構成のされかたは、とても興味深いし、

すごく身近に感じてしまうのは、やっぱり自分が日本人だからかな?

廣瀬さんの感じたところでは「仏教とはつまり暮らし方」なんだと。

こういった感覚で仏教をとらえるのはおもしろいし、

今とても求められていることだとも思う。

 

廣瀬さんが書かれているテーマは、いろいろ変遷しつつ

「禅」というところに辿り着いたけど、

気持ちよく暮らすことをテーマにしている、という意味ではブレがないし、

深まっているんだな、なんてことを感じた次第。

座禅のプチ体験もあってそれもまた楽しかった。

体幹、つまり身体の中心がごく自然に、

気持ちよくまっすぐに座れる場所を探していったり、よく見る、よく聴く、

よく香る、つまり感じることにより能動的になることだったり、

そんなことを意識しながら座っていたひととき。

週末の代官山にいるのに、まわりの空気が変わっていくのがわかって、

その場に身をおけたことはわずかな時間だったけど

とってもおもしろい体験でありました。

天のしずく

年が明けた半ば、3か月ぶりに東京・葉山にもどった。

たった3か月だけれど、その3か月はずいぶんと長く感じた3か月だった。

 

帰った理由は、代官山蔦屋書店での新刊のトークイベントのため。

あたらしい本のもうひとりの著者、藤田一照さんと話をした。

蔦屋書店は「すごい」と聞いていたけれど、確かにすごいところだった。

「何がすごいか」は、ぜひ、行って体験してみてください。

わたしは、編集の方との待ち合わせ3時間前にお店に着いた。

そのくらいの時間があれば、店内をすべてまわれる、と思ったからだ。

けれど、結果的には、まわり切れなかった。

あそこの棚で止まり、ここの棚で止まり。

そんな感じで本を手にとり、選んでいたら、3時間はあっという間にすぎてしまった。

 

一照さんとのトークについては、

松浦裕さん(アフタヌーンティーの連載担当編集者であり「つむぎや」という

料理ユニットをやられている方)が

まとめてくれたものがあるので、あとでアップします。

とてもいい話をしてくださった・・・ということは確かです。

 

東京滞在は2日で、あとは葉山にいた。

葉山滞在中に観ておきたかった映画がある。

『天のしずく』。辰巳芳子先生の映画だ。

 

辰巳先生は鎌倉にお住まいで、2回ほど町でお見かけしたことがある。

白い髪を結いあげ、はっとするきれいな色の服を着られていた。

観光客の人混みのなかでも「あ、辰巳先生」とすぐわかった。

 

辰巳先生は「いのちのスープ」をつくられている。

そのスープをつくりはじめた経緯、思いから

食べ物、いのち、と、辰巳先生を軸に物語が広がっていく。

日本の美しい風景、鎌倉の四季、台所でくり返される営み、集う人たち・・・。

いのちとは・・・。愛とは・・・・。

わたしは、最初から涙があふれつづけた。

上映時間の100分はあっという間にすぎ

見終わったとき「このつづきを観たい」と思った。

思いがけず、映画のなかには瀬戸内の物語もあった。

その光景にも涙があふれた。

 

葉山にいるときに、この映画を・・・と思ったのは

四国では上映予定がないからだ。

葉山にいたとき、逗子のシネマアミーゴでちょうど上映されていた。

やはり、評判のようで、わたしが行った平日の午前中の回も何人もの人が来ていた。

週末は、店の前にならんでいるらしい。

 

また、どこかで、この映画を観たい。

いのちが響き合う・・・ということを確かめたいとき、思い出したいとき。

「わたしは何者か」を思うとき・・・。

 

最後にフライヤーに掲載されている辰巳先生の言葉を。

「昨今のうたい文句『簡単即席』に

人間が生命をまっとうする真実があるでしょうか。

食ということは、あまりにも当たり前のことなので

つい日常茶飯の扱いになります。

でも、ほんとうを申しますと日常茶飯ほど、これなくしてはやれない、

生きていかれないことが多いのです。

料理は、本当に食の一端でございますが、ですけれどその小さな一端にありながら

生きていく全体に対して一つの影響を及ぼしてまいります。

食べごこちを作っていくということは、最も基本的な自由の行使。

そして料理を作る事は、自然を掌中で扱うことなのです。

それは人間にのみ許された厳粛な行為だと思います」。

 

今日は立春。ひかりの季節の到来。

 

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