お知らせ

2014.8.8 Facebookより

友人とお昼ごはんを食べたあと、
よく行くコーヒー屋さんによりました。

 

お店のかたと話していたら
話の流れで
「『もし、いま、何でもやっていい』と言われたら
何をやりますか?」と聞かれました。

 

一瞬の間があり・・・。
「何もやらないかも」と答えている自分がいて
その答えに、わたし自身がおどろきました。

反射的に出た答えだったので、
ある意味、本心だったのかもしれません。

でも、そのあと、思いをめぐらしてみると
ひとつの答えがうかびました。
やりたいのは、やはり「場づくり」でした。

 

お茶が飲めて、本が読めて、
ゆっくりできて、眺めがよくて、野菜が買えて、と
そんな「場」です。
それは、カフェでもなく、本屋さんでもなく
「場」なのです。

そして、思いました。
「どうして、わたしは、そのことをやらないのだろう?」と。

 

何かをするため、ある程度の準備は必要です。
けれど「時間がない」「資金がない」「人がいない」
と、いうのは、わたしはあまり関係ないと思っています。
そういうことは、ものごとが進みだしたら
あとからついてくる、と
考えているところがあります。

「時間がない」「資金がない」「人がいない」は、
やらない理由、できない理由に
ならないと(生意気にも)思っています。

あるとしたら「タイミング」ぐらいかなあ。

 

だとしたら、何が自分を止めているのでしょう?

 

ひとつは「書く」ことだと思いました。
長い時間「書く」ことを優先してきたので、
「書く」時間をとらなければ・・・と
思いこんでいるところがあります。
机の前に座っていても、
書く時間より
書かない時間が長いことは
多々、あるのですが、
それでも、とりあえず「座る」のです。

 

あたらしいことをはじめると
その「座る」時間がとれなくなると、
無意識に、意識的に思っているのです。
さらに、その気持ちを見つめていくと・・・。

 

「書く」ことがすき、の
「すき」が、別方向にむかい
「怖れ」になっていることに気づきました。

 

「書く」ことで、バランスを取っている自分。
かろうじて社会生活に関わっていられる自分。
それが、できなくなる怖さ。

「わたしはわたし」であるのだけれど、
人は人のなかで生きています。
何者でもないけれど、何者でもあるのです。
それが、はずれてしまう気がするのです。

 

「すき」は「すき」でいいはずです。
失う怖さはあっても、
そちらに焦点を当てなくてもいいはずです。

と、いうことに(ざっくり)気づいたら
「できる」ことに気づきました。

 

「やりたい」や「やる」ではなく
それは「できる」でした。

 
こどものころから本がすきで、
でも、わたしは、外であそぶこともすきでした。
そのときは、どらかひとつを選ぶことは不要でした。
だって「どちらもすきだから」。

 

それでいいのだと思います。

 

「もう、ないだろう」と思っていても
自分を止めていることは、まだまだ、あるんですね。
それがわかっただけでもよかった・・・のでしょう。

 

 

 

 

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