611「SING FOR LOVE」宮城からの手紙

2011/06/21

6月11日、鎌倉の雪ノ下カソリック教会で開いた「SING FOR LOVE」で
読み上げた宮城からの手紙です。
いただいた手紙をサイトなどで紹介する場合、
実名を掲載しないという約束をしたので、今回はイニシャルにしています。
ご理解ください。
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宮城県 山元町 kさん
Kさんは、6歳、3歳、0歳のお母さん。
宮城県南部の海沿いの町、山元町に家があります。
震災当時、山元町は地震と津波で壊滅的な被害に遭いました。
昨年11月11日に生まれたこどもは、大震災の日に4ヶ月を迎えました。
無事に避難所へ避難することができた私たち家族は、
人伝いに津波で家が浸水したと聞かされました。
津波に遭遇する前に避難したので、
現実が信じられない気持ちと、あきらめきれない気持ちと、
これからどうするのか、どうなっていくのか、全く想像ができませんでした。
車の中で、そんな事を思いながら一夜を過ごしました。
夜が明けはじめると、起きて、朝日が昇るのを見ました。
地震直後、津波が押し寄せているときは、雨は降っていないのに、
嵐のような荒れた空で、怖いくらいの真っ黒い入道雲が覆っていました。
しかし、夜になると空いっぱいに明るく星が輝き、
次の日の朝は、あの震災が無かったかのような
鮮やかすぎるオレンジ色の朝日を家族と共に見たのです。
朝日を見ていたら、本当に必要なもの・大切なものがはっきり見えてきました。
いつもは家事に追われ、こども達が疲れるまで遊んであげることはできないですが、
夜が明けはじめると学校内の遊具でおもいっきり遊びました。
こども達のまわりには、家族、地域の方々、
少し大きいお姉さん達が常にいて、日が暮れるまでたくさん遊んでいました。
大人達は時間を気にすることなく、地域の人たちとおしゃべりをし、
今までよりも人々の関係が深まったように思います。
家族が何に追われること無く一緒にいられる この穏やかな時が、
とてもいとおしく思いました。
電気が通っていなかったので、日が暮れれば、皆 体育館や車の中に入り寝ていました。
私たちは、こどもがまだ小さく、他の方の迷惑にならないように車にいました。
主人の両親と、こども達がこんなに一つの場所に一緒にいたことは初めてのことです。
また、出産後、日が暮れ始めてから次の朝が来るまで、
こどもをずっと抱っこし続けたのも初めてのことでした。
この大震災の中で、数えきれないほどの悲しみが生まれましたが、
こんなに人の気持ちが動くのを目にしたのは初めてのような気がします。
何か大切なものを手に入れられるいい機会なのかなと。
まだまだ心配なく、安心して暮らせる日が来るのは先です。
山元町は汚泥やがれきの山で囲まれています。
そのため、肺炎もはやっているそうです。
こんな不安な環境ですが、山元へ戻ることを決めました。
家族が一緒に暮らせることができるだけで良かったのだと思っています。
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宮城県 塩竈市 Tさん
Tさんは、震災後に「家が流された」と聞き、避難所で生活しました。
家の周辺は、しばらく立ち入り禁止になり、
家の様子を確認することもできなかったそうです。
さいわい、津波は家の手前で止まり、家は無事でした。
3月11日、それは恐ろしい揺れと津波、悪夢の始まりでした。
私たち家族も避難所生活を送る事になり、
その夜は乾パン1袋、水を家族4人でわけあって過ごしました。
電気、水道、ガスと全てが使えず、欲しい物も買えない、
一番怖かったのが世の中の情報、地域の状況すら伝わってこない事でした。
今まで使いたい放題、食べたい放題の生活をしてきた私たち家族にとって、
苦痛の日々でした。
三ヶ月が経とうとしている今、
思いかえせば、あの困難は私には必要な事だったのかもしれないと思います。
でもそれは、私たち家族が全員無事であったからこそ言える事でしょう。
ただ親として、私たちも被災者でありながら娘に
「私も誰かのために何かしたい」と言われた時は、
やっぱり悪い事ばかりではなかったと感じました。
人の温かさ、優しさ、頑張っている人、そんな事でいつも泣いています。
ここ塩竈では、日本のため、地域のため、誰かのためにみんなが動いています。
この光景は被災者である者のみが見ることができ、
感じることの出来る「ひとつ」でもあります。
私の周りにも亡くなった方、見つからない方、
家や車と流された方がまだまだいらっしゃいます。
どうか、この震災を忘れないで下さい。どこかで、ふと思い出してください。
そして、この震災の犠牲者の事を思って下さい。
それが残された私たち、これから生きていく人達の役目だと思っています。
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宮城県 仙台市 Aさん
仙台の街に近い、古いお寺などの残る内陸の地区に住んでいます。
壊滅的な沿岸部とは違って、震災の被害は少なかったということです。
3月初めに出産したAさんは、震災の2日前に退院したばかりでした。
私は地震の1週間前に待望の第二子を出産しました。
彼は生きてるのが不思議な程、重い障害があります。
地震の時は彼だけまだ病院にいて、1人で頑張っていました。
地震後は病院と連絡がとれず、二日後に会いに行くまで、
無事だろうとは思いつつ心配で心配でたまりませんでした。
病院は幸い断水することなく自家発電で最低限機能しており、
NICUではお医者さん、
看護師さんが自宅にも帰らずに赤ちゃんたちを見守ってくれていました。
本当に涙が出るくらい有り難かったです。
ライフラインの復旧を待って退院し、今は一緒に過ごしています。
かわいくてかわいくて仕方ありません。
かわいくて、普通に産んであげられなかったことが申し訳なくて、
一緒に死んでしまいたいと思ったこともありました。
でも、みんなが彼の誕生を喜び繋げてくれた命、
せっかく授かり地震を乗り越えた命を、精一杯生かしていくのが母親ですよね。
彼が全ての新たな始まりなんだと、「T」と名付けました。
あの地震で多くの命が亡くなり、
まだ小さいのに絶たれた命の分まで、その人たちの想いを背負って逞しく生きるのが
彼の使命なんだと思います。
3月11日、たくさんの人に心配をかけました。
たくさんの人にどれだけ支えてもらって、
助けてもらって、優しくしてもらったか、その恩は決して忘れません。
命の繋がり、人との繋がりを大切に、子どもたちを愛して、
少しずつでも恩返しをしていきたいと思います。
皆さんに感謝しています。
ありがとうございます。
子どもたちが安心して暮らせる日本になりますように。
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宮城県 仙台市 Mさん
2011年3月11日、その日を境に私たちの目の前に広がるこの世界の
姿は、何もかも変わってしまいました。
それまでのごく当たり前であった安穏とした生活は、
もうありません。
今まで経験したことのない困難が、次々に押し寄せてきています。
私たちはどれだけの試練に耐えていかねばならないのでしょう。し
かしこのような困難の中にあって、何が大事で何が大事でないか
が、はっきりと見えてきた事は幸いなことでした。
子どもたちは“希望”です。私たちが住むこの世界の“希望”そのもので
す。子どもたちの光り輝く未来を、強い意志で思い描くことを、私
たちは決して放棄してはなりません。
子どもたちの未来を守りたい。そのために子どもたちの“”を全力で
守りたい。思いを行動に変えていく勇気を持ち続けていきたい。
そう思っています。
東北は、人々が人間以外の生命とともに冬の寒さに耐え、
春の到来を喜び、土の恵み・水の恵みに感謝をし、
互いが互いを思いやる暮らしの中で、つくり上げてきた風土があります。
そのしなやかな強さと優しさをもって、
きっと私たちは光の差し込むほうへ、1歩1歩あゆんでいけると信じます。
2011年3月11日、「あの日から変わったんだね」と、いつの日か、
子どもたちが明るく話せる日が来ますように……。
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宮城県 栗原市 Mさん
Mさんは、仙台の隣駅に位置する所でマンション暮らしをされていました。
現在は、宮城県北部の栗原市に引っ越され
田んぼや畑を手伝っています。
地震のあと、私たち家族は夫の実家である栗原市高清水に避難しました。
田舎町だったためか水の配給がかなりおくれたのですが、
幸い昔からある井戸水が役に立ちました。
仙台のマンションでは排便も一苦労でしたが、
こちらに来てからは畑にしました。
自然の力を借りて、生活するにはなんとか問題なく過ごせるようになりました。
つくづく田舎の力強さを肌で感じることとなりました。
今回の原発事故、政府に思う気持ちはあります。
でも、なにより、電力の力に頼りすぎてなにも考えずに
生活してきた自分達の愚かさを痛感しました。
あるもの、便利なものは湯水のように使う、
どこか他人まかせで自分ではなにもしない、
それでは誰より未来に生きていく子供達に申し訳ない気持ちです。
これからでも間に合うことなら、今までの生活を改めて、
自然力を信じて皆で未来の子供達の生活を明るいものにしていきたい!と強く思います!
みなさん、一緒にがんばりましょう!
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