2014.8.18 Facebookより

2014/08/18

春すぎからはじめたロルフィングは
先日、8回目が終わりました。

 

わたしの場合は

「ここがこんなふうによくなりました」と、いうより
ゆっくり全体的によくなっている。
そんな感じです。
ゆっくり・・・ではあるのですが、
ベースがしっかりしてきた上でのゆっくりなので、
確実にからだは変わっています。

 

自覚しているのは、歩き方の変化でしょうか。
歩くときの意識の持ち方、脚の運び方。
そういったところが変わったことを
ふとしたときに感じます。

 

イメージは
「草原を歩くよう」。

 

先日、施術のあと
思いついてロルファーのOさんに
筋力(筋肉)について聞いてみました。

 

昨年、左脚を骨折したことで
明らかに左脚の筋力が落ちているからです。

「正しい姿勢でふつうに暮らしていたら
その人に必要な筋力はつきます」と
Oさんは説明してくれました。

 

そのとき、わたしが知りたかったのは
もうすこし意識的につけた筋力(筋肉)のことでした。
たとえば、
「割れた腹筋」のような。

「それは、負荷をかけないとつかないです。
負荷をかけることで能力以上の筋力がつきます。
そういう筋力は、幅があります」
(言い回しは微妙にちがうのですが)

 

そうだ。そうだ。
だから、筋力をつけたい人は
負荷をかけてトレーニングするんだった。

 

帰宅して、そのことを思い出していたとき、
「それは、筋力だけではなく
生き方もそうかもしれない」と急に思ったのです。

 

「自分の思っている(持っている)力以上を使っていると
いつのまにかベースがあがっている」ということがあります。
最初はできなかったことが
いつのまにか簡単にできるようになっている・・・ということです。

 

人が生きている時間のなかには
いくつもの波があります。
無理ができない、しないほうがいい時期があります。
けれど、すこし無理をしてもいい時期、というのもあります。

 

「生き方の筋力」がついていたら
いざというとき、その筋力をつかえます。
自分以外のなにかに、だれかに
その力をつかえるときもあります。
「幅」というのは、
そういうことでもあると思うのです。
そして、何より
適度にしなやかな筋力があるからだが気持ちいいように
生き方も気持ちいい気がするのです。

 

「筋力」は
思っている以上に
重要なものなのかもしれないですね。

 

無理をしないでのんびりもいいけれど、
ほんのすこし背のびをするのも
いいのかもしれない。
ひさしぶりにそんなことを思いました。
休みたいときは休めばいいのだから。

 

「からだと、こころと、生活の筋力」。

 

持ち歩いている手帳に
そのことばを綴りました。

 

 


2014.8.17 Facebookより 

2014/08/17

朝方の浅いねむりのなかで、
このところずっと考えていたこと、
感じたいと願っていたことの
ひとつの答えのようなものがうかびました。

 

感じたいと願っていたのは
頭のなかでだした結論ではなく、
からだ全体で感じられるような何か・・・を
望んでいたからです。

 

ただ、今朝、感じたのは
「確かな答え」というものではなく、
まだ、やわらかなちいさなひかりのようなものです。

 

現実という場所にぽんと置いたら
消えてしまいそうな、
だけど・・・
そのひかりがどう変化していくかを
「見ていたい」と思えるようなものです。

 

自分にとって大切なのは
「見ていたい」と思えるようなひかりに
出合えるかどうか・・・。
その感覚も、今朝、思い出しました。

 

人は、ときどき、
わすれてはいけないことをわすれるのですね。

 

ちいさなひかりは、
過去といまと未来がいっしょになり
導かれたようです。
過去といまと未来と、という
別々に考えられている時間が
おなじところに集まったことで
ひとつになった・・・という感じでしょうか。

 

ときどき、点と点がつながって
一本の線になることがあります。
ほんとうは、ずっとつながっているのですが
日常の場面は「点」と「点」に
見えてしまう。
けれど、今朝は、
ばらばらに見えてしまう「点」が
線になったのだと思います。

 

人に説明できないような、
ことばにならないような「何か」があり、
その「何か」がよくわからず、
でも、思いは消えず
からだのなかに存在していて、
ふっとでてきたときに、考えたり、話したり。
だけど、うすくなったり。
「なにかがちょっとちがう・・・」と感じたり。
そんなものだったのが、
ほんのすこしはっきりしたのです。

ほんのすこしはっきりするために
必要だったのは
時間だけではありません。

 

散歩すること。
どこかでコーヒーを飲むこと。ひとりで。友人と。
だれかと話すこと。
だれかのことばを聞くこと。
本を読むこと。映画を見ること。
海に行くこと。
メールでのやりとり。
自分の声に耳をかたむけること。
そのことがあったから、とも感じています。
ロルフィングを受けていることもあるのだろうなあ。

 

不確かなちいさなひかりが
強いひかりになるかどうかはわかりません。
自分の気持ちと
体力がカギをにぎっている気がします。
健やかでありたい。

 

あっ。あと、タイミングもあるな。

 

このちいさなひかりのことを
だれかに、ことばとして伝えるのがとてもたのしみです。
伝えたい人がいるのもしあわせなことです。

 

曇りの日も、雨ふりの日も
重い雲のうえには、いつも太陽があります。
今朝は、ひかり射す曇り空です。

 

 


2014.8.8 Facebookより

2014/08/08

友人とお昼ごはんを食べたあと、
よく行くコーヒー屋さんによりました。

 

お店のかたと話していたら
話の流れで
「『もし、いま、何でもやっていい』と言われたら
何をやりますか?」と聞かれました。

 

一瞬の間があり・・・。
「何もやらないかも」と答えている自分がいて
その答えに、わたし自身がおどろきました。

反射的に出た答えだったので、
ある意味、本心だったのかもしれません。

でも、そのあと、思いをめぐらしてみると
ひとつの答えがうかびました。
やりたいのは、やはり「場づくり」でした。

 

お茶が飲めて、本が読めて、
ゆっくりできて、眺めがよくて、野菜が買えて、と
そんな「場」です。
それは、カフェでもなく、本屋さんでもなく
「場」なのです。

そして、思いました。
「どうして、わたしは、そのことをやらないのだろう?」と。

 

何かをするため、ある程度の準備は必要です。
けれど「時間がない」「資金がない」「人がいない」
と、いうのは、わたしはあまり関係ないと思っています。
そういうことは、ものごとが進みだしたら
あとからついてくる、と
考えているところがあります。

「時間がない」「資金がない」「人がいない」は、
やらない理由、できない理由に
ならないと(生意気にも)思っています。

あるとしたら「タイミング」ぐらいかなあ。

 

だとしたら、何が自分を止めているのでしょう?

 

ひとつは「書く」ことだと思いました。
長い時間「書く」ことを優先してきたので、
「書く」時間をとらなければ・・・と
思いこんでいるところがあります。
机の前に座っていても、
書く時間より
書かない時間が長いことは
多々、あるのですが、
それでも、とりあえず「座る」のです。

 

あたらしいことをはじめると
その「座る」時間がとれなくなると、
無意識に、意識的に思っているのです。
さらに、その気持ちを見つめていくと・・・。

 

「書く」ことがすき、の
「すき」が、別方向にむかい
「怖れ」になっていることに気づきました。

 

「書く」ことで、バランスを取っている自分。
かろうじて社会生活に関わっていられる自分。
それが、できなくなる怖さ。

「わたしはわたし」であるのだけれど、
人は人のなかで生きています。
何者でもないけれど、何者でもあるのです。
それが、はずれてしまう気がするのです。

 

「すき」は「すき」でいいはずです。
失う怖さはあっても、
そちらに焦点を当てなくてもいいはずです。

と、いうことに(ざっくり)気づいたら
「できる」ことに気づきました。

 

「やりたい」や「やる」ではなく
それは「できる」でした。

 
こどものころから本がすきで、
でも、わたしは、外であそぶこともすきでした。
そのときは、どらかひとつを選ぶことは不要でした。
だって「どちらもすきだから」。

 

それでいいのだと思います。

 

「もう、ないだろう」と思っていても
自分を止めていることは、まだまだ、あるんですね。
それがわかっただけでもよかった・・・のでしょう。

 

 

 

 


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